働き過ぎだったのか?自律神経失調症を発症して会社を休職するまで

大学時代は、講義・ゼミの準備・サークル活動・バイトに励み、体力的にも自信があったので3徹くらいは平気でこなしていました。同期がうつ病になって休学したとき

「まぁ人間だから疲れるときもあるし、調子が悪くなって心身のバランスが崩れることもあるよ。長い人生の中で1回休みの時期があってもいいと思うで」

と余裕ぶっこいていた私が、働き始めて自分が自律神経失調症になり休職するまでの様子を振り返ります。

社会人1年目から全力でした

私が新卒で入社したのは大手ゼネコンでした。その会社は新入社員の1年間は研修期間で、3つの部署を4ヶ月毎のローテションで経験するシステムになっていました。私は技術系だったので、見積部(構造なのに何故か仕上げ見積りの部署)、工事現場の現場監督、設計部の3部署を回りました。

全国で採用された新入社員が集まって寮生活を過ごし、1年後に配属が決まって全国に散らばっていきます。寮は2人部屋でしたが、防大の寮生活を経験していたので特に苦もなく1年を過ごせました。

見積部では繁閑期がはっきりしていて、定時で退社できる時も結構あり、体力的・精神的には一番余裕があったと思います。

工事現場は寮からドアtoドアで1時間半程度の現場だったので、朝6時半には寮を出て夜は平均して8時頃に現場を出るような生活でした。躯体工事が始まったばかりで屋根もなく、真夏から初冬にかけてのローテーションだったため体力的にはきつかったですが、体を動かすことが多かったためか精神的にはまだ余裕がありました。

3回目のローテションが設計部の構造部門だったのですが、構造設計職能での採用ということもあり、最初からかなり気負った状態で臨みました。設計部では配属初日と寮生ミーティングがある毎週水曜日以外の日は、ほぼ全て終電に近いくらい忙しかった。単純にやることがあったというのもありますが、自分なりに頑張って納得いくまでやろうとした結果であったと思います。

各ローテションの配属先では先輩社員(入社5年目~10年目)が指導担当として付いて、指導されながら業務をするシステムでした。設計部での指導担当の先輩(入社10年目)はとても優秀な方で、同時に2、3物件を抱えており、しかもどの物件も十分以上の出来というスーパーな人でした。私の憧れであり、目標の人でしたが、その時点でオカシイことに気付くべきでした。

私と指導担当では経験値が天と地以上に違う。元々の持っている才能というか、得意なこと不得手なことが違う。という当たり前の事は頭に無く、すぐにその先輩のレベルに達しないとダメだと思うようになってしまっていました。

それでも1年目のこの時期は、新築物件の1棟を設計させてもらえたりもあり、むちゃくちゃ仕事していた割に、忙しい事を楽しんでいられる精神的な余裕があました。

2年目の半分過ぎたあたりで、アレ?オカシイぞ

そんな1年目が終わり、設計部構造部門の一員として本配属となりました。ちなみに1年目のローテションとは違うグループへの配属です。

本配属後すぐに、新築物件の構造設計の担当となりました。そのゼネコンには珍しく、他の事務所が意匠設計で、構造・設備と施工がそのゼネコンの物件でした。いきなり実施物件の担当を任せられるとは思ってもいなかったので、緊張はしましたがやりがいも感じていました。

そのゼネコンでは一貫計算ソフトを自社開発していて、当時はまだホストコンピュータ上で解析するソフトを使っていました。デスクトップ上のソフトと違って解析モデルをテキスト入力するのですが、マニュアルとにらめっこしながら毎晩終電近くまでやってました。

1つ目の物件を何とかこなして、すぐに次の物件が回ってきたのが夏頃でした。この頃から朝起きるのが少しツライな~と感じるようにはなっていたのですが、ほぼ毎日終電で土曜日も出勤なら当然だよなと思い、あまり深く考えずに働き続けていました。

自分でも「アレ?オカシイかな」と思い始めたのは3物件目の設計途中の秋頃でした。朝がツライだけでなく、疲れているはずなのに夜寝られなくなってしまいました。結果として朝は遅刻しがちになってしまいましたが、単に体力的な問題で気合いと根性で何とかなる、自分がたるんでるだけだ、と無理をするようになっていきました。

その頃の自分の状態を客観的に見ることはできていませんでしたが、周囲の方には状態が良くないという事は見えていたようで、2年目の終わりにスタッフ部門への部署替えを告げられました。

実施物件をガンガンこなすラインの部署から、設計部門内の研究職のようなスタッフ部門への異動でした。通常はラインの部署を3年~5年経験してから他のラインの部署へ異動したり、スタッフ部門へ異動したりというローテーションなので、1年での異動は上司の思いやりであったと今なら思います。

当時は、実施物件の設計から離れることが流れに取り残されそうに感じており、「まだまだやれるのに何故だ!」と何も見えていないアホでした。

3年目でいよいよヤバくなりだした

スタッフ部門に異動した3年目、実施物件の設計業務はあまり無い部署だったので、比較的早めに退社できるようになっていました。それでも体調は戻らず、不眠・偏頭痛があり朝起きられず、遅刻・病欠をするようになっていきました。

それでも何とか勤務していたのですが、あまりに状態がひどかったのか、上司から「君のいまの状態は普通ではないと思う。外部のカウンセラーが毎週来ているので一度カウンセリングを受けてみてはどうか?」と勧められました。

自分でも今の状態が普通では無いことは自覚してはいたのですが、カウンセリングを受けることは考えもしていませんでした。まさか自分に限ってカウンセリングのお世話になるような事はないだろうと訳の分からない事を思っていました。上司の勧めを断る理由もないので、社外から来ているカウンセラーの元を訪ねました。

とうとう休職

3年目が終わり4年目に入った6月、カウンセリングに行った初日に

「あぁ、休みなさい。休職しなさい」

と言われました。初日は簡単な自己紹介と現在の状況を話しただけですが、カウンセラーにはピンとくるものがあったらしく、心療内科のクリニックを紹介され、休職を強く勧められました。まさか休職する程の状態だとは思っていなかったの驚いてしまいましたが、心の別の部分では「あ~、これで休める」とホッとしたのも事実です。

最初のカウンセリング後に上司に「休職するように強く勧められました」と報告したところ、上司は「分かった、仕事・会社のことは気にせず、しっかり休んでこい。手続きは人事部に問い合わせればいいから」と言ってもらえました。

ここから休職と復職を繰り返すことになります。

私がこの病を発症したのは、自業自得であったと思います。

・自分の能力を過信し、今出来ること以上のものをしようとしていた。

・心身のバランスに配慮し継続的に働くことが一番だという事が分かっていなかった。

・気合いと根性で何とでもなると思っていた。

・出来ないのは自分の努力が足りない、もっと努力しなければと思っていた。

・すぐに出来るわけがないレベルに、すぐに到達しようと焦っていた。

現在の自分の能力、状況が全く客観的に見えておらず、無理に無理を重ねた結果の自律神経失調症の発症であったと思います。今ならあの頃の自分に、「そんなに気負わなくてもいいよ、構造設計が出来るようになるには結構時間も必要だよ、焦ることなく1歩ずつ進みなさい」と言ってやれると思います。

休職と復職を繰り返した後の退職については次の機会に

では、また

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