垣根涼介「光秀の定理」における定理(レンマ)とは何なのだろう

垣根涼介さん著の「光秀の定理(レンマ)」を読了。垣根さん初の歴史小説ですが、これまでの垣根作品と同じく爽やかな読後感のある青春小説となっています。垣根さんの他の作品にも共通する、平易な読み口と爽やかな読後感の後に、何か残るものがあります。この作品の場合は、タイトルにある「定理(レンマ)」でした。光秀のレンマとは何か?

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物語のあらすじ

若き日の光秀と素浪人・新九郎、僧・愚息の出会いから物語りは始まります。都でひと旗あげようと関東から出奔したものの困窮し、辻斬りまがいの行為に走る新九郎。僧とはいえ特定の宗派に属さず妙な理屈をこねる愚息。この2人との奇妙な友情を軸にして、前半3章までは織田家に仕える前の若き明智光秀が描かれます。

後半は、織田家に仕官した後にゴボウ抜きで出世を果たし、近畿管領とまで呼ばれながら本能寺の変を起こしてしまう光秀。本能寺の変に関する詳細は語られず、秀吉の天下となった後に新九郎と愚息が光秀の真意に思いをはせ、回想するという展開になっています。

この物語では、歴史小説なのに確率の問題や和算の等差数列の問題が出てきます。4つの椀に1つの石を入れた問題は、モンティ・ホール問題として知られる「ベイズの定理」の応用例。1から10までの数を全て足し合わせる問題はガウスの方法。

物語の中盤、織田家では新参者の光秀が頭角をあらわすきっかけとなった長光寺城の攻城戦の場面でも、4つの椀に1つの石を入れた問題が出てきます。ドラマティックな場面ですし、巻頭に長光寺城の地図と定理(レンマ)の定義が載っていることからも、本のタイトルの「定理(レンマ)」とは数学的な定理のことなのかと思ってしまいます。

ただ、読後に光秀の定理とは何だったのか考えた時、少し違和感がありました。数学での定理って、セオリーとかそんなのだったような気もするし…。確認のため調べてみると数学的な意味での「定理」は必ずしも「レンマ」ではありませんでした。

数学での定理(レンマ)とは

数学における用語の定義では

「定理:theorem」

「補題:lemma」

となっています。定理と補題には厳密な区別はなく、論説における役割によっては補題(レンマ)を定理と呼ぶこともあるので、「定理」と書いてレンマと読むことに不自然さは無いと考えることもできます。

しかし、言葉の定義にこだわるのが作家というものですよね。作中に数学の例題を出し、タイトルに定理とつけておきながら「レンマ」と読ませるには何かあると考えるのは、考えすぎでしょうか。読んだ後に、きっと何か意味があるのではないかと感じてしまいました。

もうひとつのレンマ

気になって「レンマ」という言葉を調べてみると、西洋的な「ロゴスの論理」と東洋的な「レンマの論理」にたどり着きました。

西洋的な近代文明は、言葉(ロゴス)で言い表せる論理で動いている。言葉を順番にたどっていけば必ず理解出来る、「整理」や「秩序」の論理である「ロゴスの論理」。

一方、言葉では世界の本質はとらえきれない。世界は多次元的に複雑に動いているのだから、時間軸に沿って整理するのではなく、直感的に全体を一気に把握する必要があるという東洋的な「レンマの理論」。

どちらが優れているとか劣っているとかいう話ではなく、西洋と東洋での考え方の違いを考察したひとつの分け方です。この「ロゴスの論理」と「レンマの論理」の考え方に出会い、タイトル「光秀の定理(レンマ)」がやっと腑に落ちました。

光秀の定理(レンマ)とは

秀吉の天下になった後に愚息と新九郎が光秀をしのび、本能寺の変に至った光秀の心中を探る場面が終章にあります。

p392

「ゆるいのじゃ」愚息はさらに言った。「これも然りなら、あれも然り。こちらが駄目でも、まだこちらもある。そういう意味で、抜け道を常に持っている気楽さとも言える。百人がいれば、百通りの正しさがある。この国の民はの、たとえそれを信じずとも、いくつもの尺度、相反する選択肢があって、初めて安心するのかも知れぬ」

天下布武を掲げて、戦国の世を統一しつつある信長。信長の家臣として重要な位置を担い、現状の認識の仕方が信長と似通っていた光秀。それでも、天下統一後に信長が作り出すであろうと光秀が考えた体制に、空恐ろしさや息苦しさを感じていた光秀。

超合理主義で無神論者の信長が絶対君主として君臨する世界。絶対君主の一族以外は使用人に過ぎない世界で、光秀の土岐明智氏は上を仰ぎ見る事しかできない。そんな世の中に自分の一族を残しておくことはできないと考えてしまった光秀。

「光秀のレンマ」とは物語中に出てくる数学の例題のような「定理」だけではなく、東洋的な「レンマの論理」でもあったと感じました。絶対的な王者が君臨し支配し、支配される世ではなく、「ゆるい」つながりの中で結ばれている世の中。「百人がいれば、百通りの正しさがある」ことを許容する世の中を指向していた光秀。

この物語は、光秀と愚息、新九郎の3人の青春物語として読むこともできます。しかし、ここに信長を加えると4人。自分と世界の関係性の持ち方の違う4人。4人…4

東洋的な「レンマの論理」のレンマは漢訳で「四句分別」であり、テトラレンマ=レンマである。数学的な例題を出して話を進めたり、巻頭のレンマの説明では「(例)ピタゴラスの定理」とする一方で、哲学的な「レンマ」を忍ばせている。これだから垣根涼介さんの作品は面白い。

では、また。

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